しんぶんぶん

しんぶんぶんのブログ

強迫観念駆動人生へ愛を込めて

はじめに

自分は最近までかなり強迫観念に囚われて生きてきたのですが、最近それが薄れてきて今までの生き方を俯瞰的に見れるようになったので、いったん文章をしたためてアウトプットしておきます。かなり雑多な文なので読みにくいかもしれません。

共感を呼ぶような生き方ではないので、こんな人もいるんだなくらいで読んでください。共感してくれる人がいたら頑張って生きていこうなという気持ちです。

強迫観念駆動人生

自分は以下のような強迫観念を最近まで抱いていました。

  • 何者かにならないといけない
  • 何か大きいことを成し遂げないといけない
  • 常に手を動かし続けないといけない
  • 無駄なことをやっている暇はない
  • 技術をやらないと死ぬ
  • 技術的に価値のない自分に生きている価値がない

強迫観念はどこからきたのか

そもそも強迫観念には、環境や人などの外的要因と、自ら植え付ける内的要因があると思っています。

外的要因

まず自分の外的要因として一番大きかったのは筑波大学のAC入試に落ちてしまったことです。今は会津大学にいるのですが、会津に来てしまったからには入試の失敗を取り返さないといけない、何か成果を出さなくてはいけない、何者かにならなくてはいけないと思っていました。

また、増幅させる原因として自分の観測範囲に強い人がいすぎたという問題があります。特に一番悪影響だったのはTwitterで、TLを見ればすごい人ばかり流れてきます。全人類未踏採択されてる、全人類セキュリティキャンプ受かってる、全人類ラボユース採択されてる、全人類起業して資金調達してるし、全人類暖色コーダーのような錯覚をしてしまうのです。

基本的に大学1年からはずっとこのような劣等感に苛まれて生きてきました。

ただ、一般的な人間はこのような劣等感だけでは前述のような強い強迫観念は生まれないと思います。ここまで増幅させた一番の原因は以下の内的要因です。

内的要因

とりあえず「強くならないといけない」程度の強迫観念を外的要因により植え付けられた自分は、強くなるためにもっと強迫観念を増幅すれば良いのではと考えました。そこで、入学した会津大学で実力に見合わないポジションを取り「しんぶんぶん」という虚像を作れば、実体とのギャップを埋めるために死ぬ気で努力するから強くなれるという手法を試します。

自分の手札には「ハッカソン受賞歴」「高校生ながらインターンに行っていた経験」「共著で商業誌を執筆した経験」などがあったため、これらをうまく使いながら本来の自分より数倍も実力があるようなふりをし、「イキリ力」で「技術的にめちゃめちゃ強い人」というポジションを取りました。

もちろん自分より技術のできる人なんて大学にたくさんいるので、下手なムーブをするとすぐボロが出ます。ボロが出て周りに失望される前に自分の実力を上げてそのギャップを埋める必要があるため、死ぬ気で頑張らなければいけないのです。失望される恐怖はとても強い燃料になります。

自分はこのような状況を作り出すことにより、とても強い強迫観念を自分に植え付けることができました。

自分のアイデンティティ

強迫観念を増幅させるもう1つの要因としてあったのが、自分のアイデンティティがコンピュータにあったことです。

中高生の頃からコンピュータをずっとやり続けていると、だんだん自分のアイデンティティがコンピュータに寄ってきます。特に自分は高校生の頃からコミュニティに出て色々な大人に褒められて承認欲求を満たすという経験をしていたので、自分に関する価値はコンピュータに依拠する部分がかなり大きいと思っていました。

前述の通り、Twitterには(外から見ると)天才(に見える人)がたくさんいます。そういう人たちをみると自分はこいつらに勝たなければいけないという強迫観念が生まれてきます。なぜなら、そいつらに負けると自分のアイデンティティが揺らいでしまうから。

強迫観念が増大すると何が起こるか

自分は1日15~20時間くらいずっとコンピュータを触り続けている生活になりました。大学のオープンスペースの一角を占有して、朝起きてから寝るまでコンピュータをやり続け、限界に達したら寮に帰る or 大学のソファーで寝るといった具合です。

最初の方はアドレナリンが出続けどうにかなったのですが、半年くらいたってだんだんキツくなってきて、ちょっとセーブしつつそれでも1年半くらい続けていたら精神がぶっ壊れました。

周りへ与える影響

強迫観念に囚われているとまわりにもそれを振り撒いてしまうことが起こります。技術をエンジョイしている人をみると、「俺は命をかけてやっているのにこいつらはなんなんだ、カスなのか?」という気持ちになってくるのです。命をかけて技術をやっていない人間がだんだんゴミに見えてくるし、自分の信じている評価軸が技術一辺倒になるため、技術でしか人を判断できなくなります。そのような調子でまわりにも命を削ることを強要すると、友達がいなくなります。

実力に見合わないポジションを取ることの危うさ

前述の通り失望に対する恐怖は強迫観念の燃料になるのですが、やはり気付く人は本当の私の実力がわかってしまいます。このやり方をすると本当の実力者から嫌われる危険性があります。

また、当たり前ですがまわりの評価に対して自分の実力が見合っていない状態はとても精神的負荷がかかります。やってる間はずっと精神的に辛いし、やり続けると結果的に精神が壊れます。

強迫観念駆動人生で得たもの

マイナスのことばかり綴ってきましたが、リスクを取る分やはり得るものはかなり大きいです。当たり前ですが毎日十数時間コンピュータを触り続ければかなりできるようになります。最初はただのイキリ野郎でしたが(まぁ今もそうなんですが)、とったポジションに見合うとまではいかなくとも、大学生にしてはそこそこできる方なんじゃないかというレベルの実力はつきました。

ただ、逆に言えばこれだけやってもこの程度の実力しかつかなかっため、とったリスクに大して十分なリターンがあったとは言えないなと思っています。

強迫観念を薄れさせるには

自分と同種の強迫観念を持っている場合は、ある程度現状の自分に満足することが一番の近道です。自分の場合は、作り上げた虚像と現実のギャップがある程度埋まり、他者の評価軸でもある程度戦っていける実力や実績がついた時に強迫観念がだんだん薄れてきました。結局、一度強迫観念を持ってやり始めてしまったら、どれだけ苦しくても満足いくまでやり切るしかないと思っています。精神がぶっ壊れるのか自分が満足するのか、どっちが早いかのチキンレースです。

ただ、薄れさせることはできても完全に無くすことは難しいです。自分も薄れた時期はありましたが、周りの環境がちょっと変化するとすぐに再燃しました。今の自分は安定していますが、自分の精神が未熟な限りずっと付き纏われるんだろうなと思っています。ただ、結局厨二病を拗らせているだけなので精神が成熟したらなくなっていくものなんじゃないかという希望的観測もあります。

それでもコンピュータは嫌いになれなかった

どれだけ苦しくてもコンピュータのことだけは絶対嫌いになれませんでした。結局どこまでいっても自分はコンピュータが本当に好きなんだろうなという確信は持てました。好きだからこそ苦しくてもここまで続いた部分はかなりあると思います。

死人に口なし

ここまで色々かいたものの、結局これは全部生存バイアスです。死人に口なしなのです。自分はたまたまある程度ものになりましたが、間違っても真似はしない方が良いと思います。ただ、人生いろいろあるので、自分の命をかけてでも成長しないといけない場面があるかもしれません。そのような場面にぶち当たった時にこのブログを思い出して「そういや1人同志がいたな」と思ってもらえると僕も嬉しいです。

おわりに

適度な強迫観念を持つことは効果的ですが、いきすぎるとこうなるという一つの事例でした。やっぱりコンピュータは適度に楽しむのが一番良いと思うのです。みなさんは適切な摂取量で素敵なコンピュータライフを送ってください。